「聖人」とは生まれるものではなく、つくられるものである。
世界には四人の聖人がいる。
イエス、釈迦、ソクラテス、そして孔子である。
俗に言う「世界の四聖」である。
これら四人の出生は、イエスを除いて紀元前500年頃に収束される。
なぜ世界で同時多発的に、交流のない各地域で、これらの人物達が現れたのかは、現在では気候の温暖化と、鉄器の普及であることがわかっている。
面白いのは、これらの聖人と呼ばれる人物達が生きていた頃に、本人達が直接教えを施した対象は、非常に狭い範囲であったということである。
イエスの活動範囲などは、ある小地方のみである。
それがなぜ、二千年以上ものあいだ、今に至るにもこれら聖人の教えが広まり続けてきたのか。
教えている内容が素晴らしかったからか。
もちろんそれもあるだろう。中身が虚無のものなどは歴史に残らない。
だがそれは必要条件であって、十分条件ではない。
「弟子」の存在。
これが重要であることは間違いではないが、しかし、いかなる時代にも少数の狂信者に取り巻かれた教祖というのはいるものである。
少数の者がいつの時代も変革をおこしていく。
かといって少数者の洞察が当てになるということでは全くない。
まずもって、聖人と呼ばれる人々が生前に人類の教師になることはなく、多数の人の歓迎を受けることも稀なのである。
ペテン師も聖人も、少数の狂信者に取り巻かれ、同時代には認められることはない。
では、聖人とそうでない者の違いはいったいどこから生まれるのか。
これら聖人の弟子達は、その師が同時代の大衆にいかに迫害され侮辱されようとも、師への信頼は決して揺らがなかった。
そしてここからが「聖人誕生」の真骨頂だが、師が毒杯や十字架で死刑になってからの死後、弟子達は師の生存中にも増して教えを世に広める努力をした。
それは一世代や二世代だけで終わることはなく、烈火のごとく世代を経るごとにその感化力は強まり世界に広く拡がっていった。
それを証拠に現存する最古の資料は、いずれも孫弟子の手によるものである。
釈迦の阿含経典、イエスのパウロの福音書や、孔子の論語。ソクラテスは弟子のプラトンと、孫弟子にあたるアリストテレスである。
世代を超えて時を経るほどに、信者達の聖人への神聖視はますます激化されていく。
弟子達は聖人の人格の崇高さ、思想の素晴らしさなどの優れた点に焦点を当て、孫弟子以降の世代は、直接の聖人本人と対峙したわけでもなく、その神聖性は益々強化されて後世に伝えられていく。
こうして聖人はつくられる。
「聖人」は、その人物の生まれから死ぬまでのあいだではなく、
生まれてから、弟子たちが伝え続けてきた時の流れの中でこそ誕生する。
YOERU.